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マラケシの花
棗 -なつめ-
マラケシの花
2003.04.10
CD
CXCA-1126
¥2381 (without tax)
1. Made in MOROCCO
2. マラケシの花
3. SALEGIO CHURCH
4. 小さな歌
5. Johnny guitar
6. 風鈴
7. Warm days
8. 竹田の子守唄
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なんと不思議な質感に満ちたディスクなのだろう。正直、これがレコード会社から送られてきたサンプルCDだということが、未だに実感として把握できないでいる。どちらかと言えば、友人がシンガポールか香港あたりの市場でみやげとして適当に買ってきてくれたカセットテープの山の中から、計らずも奇跡的な輝きを放つ1本を見つけ出してしまい、貪るように聴いている。そんな感覚に近い。おそらくそのテープには、現地の寺院や湖の写真がきわめて粗雑にプリントされているだけで、演奏者の名前はもちろん、曲の名前すらまったく記されていないだろう。しかしそこには、現地の温度や風の匂いや彼の地に暮らす人々の逞しい笑顔までもが生々しく焼きつけられ、民族(俗)音楽という特定の名称で括るのも憚られるほど、ただ音を鳴らすことの愉悦が何の邪念もなしに刻まれている。これを、<ポスト・ロック>とか<うたもの>と呼ぶこともできなくはないが、少なくともここには、既にある形式をそのままなぞるかのようなあざとさはまったく存在しない。むしろ、ただただ“その場の空気”を封印してみたいという、プリミティヴで突発的な衝動が作らせた<純音楽>があるだけだ。クレジットによれば、アルバムには軽井沢やインドでのフィールド・レコーディングも使われているようだし、シタールやタンブーラによって奏でられる民謡も収録されている。が、聴けば聴くほど、これはどこの国の、どこの場所の音楽なのかが益々分からなくなってくる。逆に言えば、この音楽を体験することで、リスナーはどこの国へも自由に、思うままに赴くことができる。そう、棗の音楽は、たとえそれが想像上のものであっても、必ずや悦楽に満ちたトリップをあなたにもたらしてくれるはずだ。

土佐有明

ダウン・トゥ・アースな音の鳴り、意識拡張的な音の処理。そうして訪れるであろう甘美な一瞬を、あなたなりにも知るところとなれば、刹那であることに感じ入る。しかしそれは再びということはなく、残像を追い求めて何度も聴きかえすことになるのではないでしょうか。

白澤正紹(flyer / club quattro)

『小さな歌』に、美しい何かの肖像を聞き取る。一点突破する、唄声の影?

青柳拓次 / KAMA AINA

今世の中で本当に音を楽しんでいる人がどれだけいるだろうか?音を制作している人達、その送り手、情報を発信する媒体、そしてそれを受け止める人達。こういった人達の中で本当に音を楽しむ人達とは?このアルバムを聴いて最初に思ったのはこんな事だ。事あるごとにこういった説教じみたことを口にしている自分をとてもいやらしいやつだと思う反面、いまだそういった状況が改善されていないことを悲しく思ってしまう。このアルバムに流れる音というものは本当の音楽だ。こういった音楽を作るものたちが音楽誌の表紙を飾り、多くの人たちの耳に届くということであれば喜んでコメントを書こう。元々音楽とは文章で語るものではない。みんなが自分の耳で判断するものだ。ただそれの手助けとなるのであればそういった努力は惜しまないつもりだ。本来は雑誌をはじめ、そういった媒体の仕事であるはずなのに、彼等が怠っている分を出来る限り補いたい。それぐらい凄いアルバムなのだから。

FARR(CALM)

こうした過渡的な音楽の中にある種の先取りの期待、つまり希望の原理を見出そうとするなら、それはたぶん変わっていくもの(音響?)と変わらないもの(フォーク?)との間のある種の共犯幻想のなかにしかないものなのだろう。今は、すべてのバンドの中に一人のブライアンフェリーと一人のイーノが仲良く共存していなければならないらしい。


工藤冬里(maher shalal hash baz)

その気になれば、何を摂らなくとも幻想なんて日常の中に簡単に見い出せる、その気になれば“心”をどこか遠くに飛ばすことだってたやすいこと……いやはや、スピッツの歌詞みたいになっちまいましたが、問題は“その気に”なるってことで、これが、本当に、難しい。でもって、棗−なつめ−。この盤に記録されている空気が旅の風景を喚起させるなんちゅう表面的なことじゃなくって、聴く者の心そのものを、“その気”にさせてくれるのが何より嬉しかったり。この場所からどこに行くのかは人それぞれ、そんな自由を気負いなく聴かせてくれるフミノスケさんの千鳥足な歌声が、僕はとてもとても好きなのです。

小田晶房(map)

静寂の中からいくつかの音が生まれ、それらが柔らかに繋がって世界がつくられる。それは確か昔に聴いたことのある懐かしい風の歌であるようで、聴いたこともない知らない国の優しい歌のようにも思える。私は春の訪れと共に、この歌を聴いていよう。桜の淡い色ともとても似合う気がする。

川口美保(SWITCH)

何らかの事情で日本に帰れなくなったまま数年、いや十数年たてば、その土地での暮らしにも慣れるだろうけれども、やはり体のどこかで故郷の持っていた湿度感への無意識の渇望は抑えられなくなる時があるだろうとつらつらと感じてしまう、どくろ杯音響フォークロア。架空のアジアの熱風の中に餓死したいというふやけたセピア感覚とは無縁でいながら、しっかりとその異郷の土地?で何年も暮らしていく中で紡いだかの楽曲と音響ばかりなのには、驚かされます。しかも聴き進めていくうちに、改めて「風」という自然現象の不思議さに「はっ」と感じさせてくれる瞬間がいくつもつまっていて、聴くものの意識をゆるやかに麻痺させていく棗独特の音響に身を任せていると今は一体どこにたどり着いてどこの風にあたっているのだろうと、目をつむりながらうつらうつらと風を味わっている自分がいます。ライヴでの「棗」は、ヘドロドロでダビーな庄司の音響処理や,ポトラッチの半分眠っているかのような、霞を静かに蹴る鈴とシタール、F.L.Yの自然現象のように予測できない紫雲エッジギターと、橋の端には落ちそで落ちないドランクン・ブリッジ・ウォーカー、フミノスケのかもし出す、砂塵舞う流雲墜のスローなサウンドが、アルバムとはまた別の味わいがあるので未聴の方はぜひ!

虹釜(360'records,viola,sno)

シタール、ミナス派、四畳半フォーク、軽井沢やインドのフィールド録音、マラケシュ、竹田の子守歌、電子エフェクトなどよろずな音が次々に現れるのに、浮かび上がるのはカラスの鳴く夕暮れとか非常にドメスティックな風景なんだよね。旅先で日本のことを思い出しているような不思議な音だなあ。数年前モロッコのマラケシュを訪れた際、聞いた音と言えば、ジャマ・エル・フナ広場のグナワ・ポッセと、誰かが宿に置いていった松田聖子の「マラケッシュ」(余計なモノ置いてくな、アホ旅行者!)だった。近いうちにマラケシュに行く予定がある人はこのアルバムを持って、沸き上がる思いに浸って下さい。

サラーム海上

時間と空間をまたぎ遺伝する血脈というものは確実に存在する。正統よりも誤解や曲解が核心をつかむことは、音楽においてはままあることだ。ラーガには厳格な規律があり、奏でられる時と場所を選ぶ。フミノスケの声やポトラッチのシタールが必ずしも体系に従うものではないとしても、ここに咲くマラケシの花は、都市のラーガに育まれ禍々しくエロティックに花弁を垂れている。

松村正人(STUDIO VOICE)

僕に涙を流させるボーカリストは、日本にはフミノスケ氏をおいて他におりません。知りうる彼の人生はほんの一部に過ぎないのでしょうが、その全時間が、彼の声を通して僕の胸に迫ってくるのでした。それは掛け値無しの優しさ、尽きる事のない温もりです。そして慈しむように歌いかける”音楽は大事なものだよ”と、まるで僕一人のためにだけ、世界の秘密を打ち明けるかのようにして。そのことが心を打つのです。メンバーは皆、”どのような振る舞いが今もっとも音楽的か”を果敢に模索し続ける、僕の大切な友人達であります。楽曲の構成は複雑で、挑戦的なまでに長い曲が多く、こらえしょうのない僕は本気で苛立ったりもするのですが、次の瞬間僥倖のように訪れるハーモニーの美しさに、ハッと息を飲む。アルバムを通してくり返し体験せしめるこの焦燥と官能の狭間で、彼等が音楽を紡ぎだす生の手触りにふれたような気がしました。”インプロビゼーション”の方法論が随所に生かされているからなのかもしれません。是非皆さんにも体験してみていただきたいと思います。凄く丁寧に作られていますから。

AMEPHONE

初めて彼らの歌に触れたときのことを今でも覚えています。グラスを優しく叩く氷。目の奥の鈍い光。優しい毒。彼岸の声。そして今、心から尊敬し、愛する四人の音楽家から届いたこの声の手紙は、あのときと変わらず可愛らしく、あのときよりも美しく其の端が少し煤けています。ただいつまでも、こうしてじっと、向こう岸に霞むあなたたちの音楽に身を預けていられれば。

安永哲郎(cubic music/minamo)

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